名ばかり首相ってあるんだ!

 今日の新聞の4コマ漫画にあったが、ファーストフード店を中心に店長の名前を与え、管理職だということを理由に時間外手当を払わない事が問題になったが、その「名ばかり店長」をもじって「名ばかり首相ってのもあるんだ」とあった。本当にそうだ。今の日本の首相は「名ばかり首相」なのかも知れない。如何にもリーダーシップがあるような発言はするが、翌日には全く反対の事を言ってみたりで、何を考えておられるのか国民にはさっぱり分からない。だから、支持率20%なんて数字が出たりするのだ。しかもこの数字を少しでも上げようと、政治家なら誰だってやっているような資金問題をことさら取り上げ、警察国家まがいの国策捜査を行い、情報リークで一方的な報道をやらせて野党の代表を葬り去ったりする。国を導く理念はなく、セレモニーをこなすだけの首相、こんなのは本当に「名ばかり首相」というのだろう。

 当初は「与党の顔」としての機能を発揮してもらい、ねじれ国会を解消するための選挙目的が今の首相に課せられた任務ではなかったのか。それが閣僚の不祥事、未熟な発言、知的能力を疑わせるような言動で「顔」としての機能は期待されず、ずるずると政治的課題を先送りして、益々「名ばかり首相」の淵に沈んでいるのが今の状態だ。与党の党首が政治理念を堂々と語り、理念に対する信頼で国民の支持率を高めてこそ「首相」の名に値するが、「敵失」ばかりを暴き立てるしか能がない、これでは国民の期待に添うことは出来ない。

 こんな世情だから、「元・お笑い芸人」が「首相の席を準備するなら与党から選挙に出馬していいよ」、などとのたまう、まさにお笑い天国みたいな国になってしまったのだ。考えてみれば、道を間違えて愚かで悲惨な戦争を行った国が、世界の範たる国と言われるまでになったのだが、奢れるものは久しからずで、二代目、三代目が国のリーダーになる時代を迎え、今や「名ばかりの首相」などと揶揄されるリーダーを抱く国になってしまった。

 今から生まれてくる日本人に、我々は何を残してやれるのか、真剣に考えなければならないだろう。

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人間は弱いものである

 今日、教会で歌った讃美歌は日本人が作った讃美歌だった。「主の瞳」と題が付いている。

  ああ主のひとみ、まなざしよ。

  きよきみまえを 去りゆきし

  富める若人   見つめつつ、

  なげくはたれぞ、 主ならずや。

 この詩の話は3つの福音書に記載されているのだが、こういうお話だ。

 「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。』イエスは言われた。『なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。』男が『どの掟ですか』と尋ねると、イエスは言われた。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』そこで、この青年は言った。『そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。』イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(「マタイによる福音書」19章より)

 「そんなにお金を儲けてどうするんだ、天国にでも持って行くつもりなのか。」と言うような話はこの世界ではよくある話だ。富は積んだところでどうしようもないのだが、人間は悲しいかな「金」という魔物に取りつかれ、命よりも「金」が大事だと思うものなのだ。掟は守れても施しをすることは本当に難しい。お金で買えないもの、それが何であるのか、皆がその価値あるものを自覚できたら、世界はもっと平和になると思うのだが、そうならないところに人間の罪深さがあるのだ。

  ああ主のひとみ、 まなざしよ、

  三たびわが主を  いなみたる

  よわきペテロを   かえりみて、

  ゆるすはたれぞ、 主ならずや。

 イエスが処刑される前に弟子たちと最後の食事を共にしたとき、弟子たちに「今夜あなたたちはわたしにつまずく(裏切る)」と言ったとき、ペテロは「皆がつまずいても、わたしはつまずきません」と断言するのだが、イエスは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしの事を知らないと言うだろう。」と言われるのだが、事実、イエスが裁きの場に引き出されたとき、ペテロは自分も殺されるのではないかと恐れ、「わたしはあの人とは関係がない」と詰問されて答えるのである。人間、自分が実際に生きるか死ぬかの極限状態にならないと、大言壮語できるけれど、その場になったら言葉をひるがえして自分を守ろうとするものなのだ。こんな話は世の中、よくある話ではなかろうか。人間は自分に弱い、それを自覚して生きなければならないことをこの話は教えてくれる。主はそんな弱い人間を憐れみ、顧みてくださっているのだ。

  ああ主のひとみ まなざしよ

  うたがいまどう  トマスにも

  み傷しめして 「信ぜよ」と、

  宣らすはたれぞ、 主ならずや。

 イエスが復活して弟子たちに現れた時、トマスはそんなことはあり得ないと、戸惑うのだが、イエスはわき腹に手を入れて「傷を確かめよ」とトマスに言う。人間は自分の考えの中でしか生きられないものだ。「信じる」ことの難しさがそこにある。すぐに「証拠を示せ」というのが人間社会の掟なのだ。まあ、「信じた」ために被害をこうむるような出来事もあるが、それは我慾の結果である場合が多い。信ずるに値するものを持って生きる、それが非常に大切ではなかろうか。

 新聞を見ていると人間の至らなさを嫌というほど見せつけられる。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(「コリントの信徒への手紙1」13章)この愛の章は結婚式で読まれたりするが、これは大間違いである。人間はこの対極にあって、愛などとは縁のない存在なのだ。だから、戦いは止まず、親殺し、子殺し、裁判沙汰の多発等々限りないではないか。

 私達は弱い、それを自覚して生きるしかないことを頭の片隅に常に置いておこう。

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小泉改革は総括されなければならない

 今朝の新聞に目を通していたら「小泉氏『神通力』低下か」の見出しが目に飛び込んできた。横須賀市長選の結果、支援した候補が落選し、変革を求めて新人が当選した。小泉マジックも昔話になったようだ。

 メールマガジンに目を通していたら、猪瀬氏が小泉改革が貧富の格差を広げ、ワーキングプアーを生み出したというのは間違いで、それ以前から格差の拡大、貧困の増大は認められ、小泉改革の問題ではない、マスコミが国民にそう刷り込んだだけだ、と書いていた。これこそまやかしではないのではないか。グローバリゼーションの波は日本にも押し寄せ、伝統的な日本の雇用環境に変化が生じ、格差拡大の傾向があったのは事実だろう。しかし、それをより鮮明にしたのが小泉改革ではなかったのでは。地域間格差が鮮明になり、福祉の切り捨て、弱者に冷たい政策が進められたのは小泉改革だった。小泉改革の総括が為されないまま、うやむやにしてしまったのは自民党の責任だ。

 郵政改革が旗印であったが、その郵政改革の結果はどうであったのか。未だ不要不急な分野への金の流れ込みは続いているのではないか。田舎にあった小さくて便利な村人に愛された郵便局は姿を消し、不便さを味わう羽目になった地域は多い。政治は弱者に如何に配慮してゆくのか、それが一番のポイントではないか。強いものは自力でどうにでもなる。弱い者は政治の力で救わなければならない。それが弱肉強食の世界になってしまったのは間違いない。

 中谷巌さんが、構造改革は日本人を幸福にしたか、と著書の中で述べている。安心・安全という最も大切なものを日本人は失った、それが構造改革の結果ではなかったのか、とこれを批判的に眺めている。如何に物質的に豊かになろうが、卑しいメンタリティの国は誇りにはならない。日本人が素晴らしかったのは豊かな思いやりの精神を持ち、勤勉さを忘れず尊んできた伝統ではなかったのではないか。

 どん詰まり状態の内閣、いずれにしても判定は下るだろう。日本人の原点を見つめ、新しい時代にそれを反映させる、それにしか日本人の幸せはない。

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ボランティア精神を全うすることの難しさ

 日本では阪神淡路大震災で脚光を浴びるようになったボランティアだが、なかなかその精神を全うすることは難しい。「ボランティアの精神とは」、と問われると的確な返事は出来ないのだが、讃美歌の452番を歌うときに、こうありたいものだなといつも思う。

 「1.ただしく清くあらまし、なすべき務めあれば、おおしくつよくあらまし、負うべき重荷あれば。 2.まことの友とならまし、友なきひとの友と、あたえてこころにとめぬ、まことの愛のひとと。 3.完全(またき)にむかいて進まん、途(みち)にて気をゆるめず、うえなきめあてをのぞみ、笑みつつたえずすすまん。」

 ボランティアの精神の一端をよく表している歌詞だと思う。人間は欲望の虜である。欲望からの自由、それがボランティア精神なのだろう。よく間違うのだがボランティアをやっているつもりでも、それが自分の満足感を得るための手段にしかすぎない場合が多々あるようにも思う。自分の事を考えても、そんな傾向があって、後になって反省するような言行がままあるものだ。

 人生は一度しかない。現役時代は家族のために精力を使いきって生きるしかないのだが、リタイヤした後の余生は上の讃美歌にあるような生き方をしたいと思い、色々とチャレンジするのだが、ついカッとなったりすることが多く、自分の欲望のためにやっているに過ぎないと思わされる。そして、それによる嫌悪感で悩んでしまうのが現実だ。

 100年に一度の大不況と言われる昨今だが、物質万能主義では人間は生き延びれないという警告をその中に見出さなければ、今回の現象は人間にとって不幸なものとなるだろう。ボランティアの精神、それは人間が長く地上に生き延びるに不可欠な精神なのだと思う。笑顔、これこそ人間にだけしかできない心の表現だ。自分の笑顔だけではなく、多くの人の笑顔を作りだす、そんな活動を今後も続けてゆきたいものだ。

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脳死は受け入れられるか

 先般、衆議院で臓器移植法の改正案が可決されたが、死生観が問われるもので、政党の政策というより、個人の心の問題だった。ヨーロッパやアメリカに比較すると、臓器移植についてはその実施例が非常に少ない日本で、しかも未成年の移植は無きに等しい状況にあった。それは日本人の死生観に根差す問題だろう。日本人は死を終わりと考えるから、死を忌み嫌い、だからそれをどう判断するのか、そこが議論の中心になってしまうのだと思います。新約聖書に次の言葉があります。

 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(第二コリント4章より)

 人間は土から作られた、だから土に帰る。この思想が欧米の人には文化となっています。肉体は朽ちるのもである、でも霊は朽ちない。だから朽ちないものを重視します。日本人にとっては死は決定的なことですが、欧米の人々は聖書のメッセージを知っているので、死はある一つの出来事であると考えているのです。道は続いていて、その通過点、ポイントであって、そこで道が切れて断崖絶壁に落ちてゆくものではないと考えるのです。

 「友のために死ぬ、これ以上の愛はない」とも聖書には書かれています。肉体はそれほど重要ではなく、霊こそ神から授かったものだと考えれば、おのずから臓器移植の問題も違和感なく受け入れられるのだと思います。

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優先席考

 半年ぶりに上京した。年寄りが優遇されているので、飛行機での旅行は安く上がる。JALのシルバー割引を使うと普通運賃の三分の一程度であり、これは大変に有難い。まあ空席が多いので、それを活用するのも一つの経営戦略だろう。急速に進む高齢化社会では少しでも旅に出る気持ちにさせるのも、ユーザー獲得につながるものだ。

 ところで、首都圏の公共交通機関では優先席がいつからか設けられている。お年寄りや妊婦さん、体の不自由な人に席を譲りましょうということである。以前から若者が優先席を占拠してタヌキ寝入りしている、なんて言われていたが、何とはなしに後ろめたい気持ちを持たせられる仕組みのように思っていた。

 この優先席の制度なのだが、私が横浜に住んでいたころは横浜地下鉄にもあったが、いつからか「全席優先席」になったようだ。何だか進歩したように思うのだが、これはまったく意味をなさないことが地下鉄に乗ると分かる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の日本人的性格からは「全席優先席」は「優先席なし」を意味しているように思うのだ。実際今回もそうだった。背中が曲がった高齢のご婦人が前に立っても雑談に耽る若者の目には全く見えないようだった。シルバーシートが明確になっていれば恥ずかしい気持ちも生まれようが、全席シルバーシートでは無いのと同じになってしまう。この発想を誰がしたのか知らないけれど、日本人の精神構造を理解していない方の発想だな、と思う次第である。皆がみんな労わりの精神に欠けるとは言わないが、「全席優先席」は「過ぎたるは及ばざるがごとし」の典型例だろう。

 上京すると若者たちから元気がもらえるのは有難い。生き生きとした姿は美しい。自分も背骨を伸ばして生き生きと歩みたいとつい思ってします。でも、年には勝てない。宿に帰ると疲れがどっとでる。田舎のリズムに慣れた身には都会のリズムは厳しいな!

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じじの嘆き!じじはエゴイストか

 人生で初めてじじは「バカ」呼ばわりをされた。本当に、じじは「バカ」なのだろう。現政権に嫌みを言うし、官僚を軽蔑するし、成金の心根を蔑視するし、偽善者を侮辱するのだから。でも、じじは「バカ」呼ばわりされても一向に構わない。見る人がいて、素晴らしい贈り物を頂ける身分だから。ひとの笑顔ほど素敵なものはない。私は今、それを励みに余生をおくっているのだから。

 じじが若いころは大変な世の中だった。我が家は貧しく、学校で使う絵具を買うためのお金の工面に、父が母の着物を質屋に持っていくのをちらりと見たり、学生時代の思い出つくりの修学旅行にも行けなかったが、それを自分に納得させて卑屈にはならなかった。それを生かして、ひとを見る目を変える転機にした。人間とは何か、人間の生き方で正しいのはどういうことか、若いころは若気の至りで理想主義に走ったりしたが、足るを知る心を育てることが大切だと学んだ。

 努力しても結果を生まないのがこの世の定めだ。日本人は因果応報的な発想をするがそうではない。何事にも意味がある。生まれることにも、そして死ぬことにも。必要な時に、必要なものを私は与えられた。今もこうして文章を書けるのも、ありがたいことだ。限りなき謙遜、これが理想だがその境地には達し得ないだろう。傲慢から遠ざかる、これは努力すれば少しは出来るかもそれない。

 じじに残された時間は少ない。この時間を大切にしたいものだ。人生は一度限りなのだから。

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年金を襲う税の嵐

 今日通達されてきた地方税の通知を見て驚いた。知らなかったのが私だけなのかも知れないが、今年後半から市県民税は年金から天引きされるようになるようだ。先般、国民健康保険税を年金から天引きすることが問題になったばかりである。私は真面目な納税者だったので、従来通りの方法で納税できるようにしたばかりである。

 役人は取れるところから取る、意地汚い根性の持ち主に思えて仕方がない。脱税者のニュースがよく新聞に載るが、脱税額たるや我々真面目な庶民とはかけ離れた額である。先日は”月報9700万円”の男が脱税していた。年金生活者の”年間の年金200万円”からは強制的に税金をむしり取り、”月報9700万円”の男は見逃す、こんな行政官に高い給与を払うことは本当に腹立たしいばかりだ。

 100年安心の年金改革と自公政権は声高に叫んだが、彼らには年金生活者の実態がどれほど分かっていたのであろうか。国民に12000円配って鼻高々の首相だが、官僚の天下り先新設に使われる税金はこの定額給付金の何倍にもなる。こんなバカな話に騙されてはいけない。

 「・・・改革には痛みをともなう。これは事実である。しかし、痛みだけに目を奪われてはならない。構造改革がもたらす持続的な成長こそが、持続的な雇用を生み出し、最終的には弱者も救済される。いまこそ、痛みの先にある新たな成長フロンティアに目を向け、それについて大いに語るべきである。」

 これは小泉内閣のブレーンだった経済学者が書いた本の文章である。正規従業員の雇用は減り、確かに非正規従業員、日雇い派遣社員などの雇用は増えたかもしれない。だが、これはまやかしである。それが国民の幸せにつながらず、年間3万人の人が自ら命を絶つ現象を生み、怒りの向け先が分からなくなった若者が、無関係な人を殺してしまう殺伐とした社会を生んだ。

 わずかな年金で暮らす年寄りからは”税”という名で金をむしり取り、毎晩何万円もの無駄使いをバーでするような人間が幅を利かす。こんな社会がどうして持続できよう!

 「悪人が栄え、善人が苦しむ。神は何故こんなことを許すのか」、永遠の謎である。

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人権、民主主義、市場主義経済の発想では破綻する

 タイトルはチョットドッキリするものだが、これは2001年に出版された松井孝典・安田喜憲「地球文明の寿命」(PHP研究所)の中で松井教授が述べられている部分の見出しの言葉である。この本を読み返してみると、昨今言われている「100年に一度の大不況」などという言葉は誤りであって、現状は人類が選択を誤れば滅亡するしかない転換期の現象のように思われる。

 人権、民主主義、市場主義経済が確立されたのは20世紀の100年間の間であって、歴史的に見て非常に短期間の出来事にしかすぎないのである。それは世界の一部分で急速に発展したものであり、その拡大に対しては何の制約条件も受けない中で発展させられたものなのだ。それが頂点に達し、「足るを知らない」欲望の拡大はもはや不可能になってきた、それが今回の世界経済を揺るがしている問題なのである。成長を前提にした社会の発展、それは地球が無限大であり、人間の欲するものが無限に満たされる、そういった次元でのものであって、実際には諸種の限界条件があるのが現実なのだ。次の成長を主導するのは中国だ、とマスコミ等は報道しているが、中国の実態を正確に把握し、問題点を認識してのことなのだろうか。GMに代わる自動車メーカーは出現するだろうか。その前に石油のピークアウトが訪れ、自動車文明は立ち行かなくなるのではあるまいか。右肩上がりの人間圏の拡大はもうない、と松井教授が指摘しているが、まさにその通りなのだろう。

 人権、民主主義、市場主義経済という考えは、人間の欲望の無限の拡大を前提とした人間中心主義以外の何物でもない。限界ある宇宙船地球号の乗組員にはそれは許されないものなのではあるまいか。

 日本のリーダー達は日本をどのようにしようとしているのだろう。不況克服が最大の緊急課題とのたまっていた総理だが、ばらまきが終わっても一向に将来のビジョンを示し、国民に信を問おうとはしないようだ。日本人は以前のような豊かな生活から決別し、貧しいながら心に安心を抱けるような社会にしなければと思うのだが、そう言った問題提起は一向になされようとはしていない。古希を過ぎた私のようなものはそれでもいいが、孫の時代はどのようなものにするのか、その準備だけはしてやるのが今の現役世代だろう。

 大混乱ののちに、美しい人間社会が出現すれば、「人間とは何か」がはっきりするのではと思えるのだ。

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思い込んだら目は見えなくなる

 恋は盲目、という言葉はよく知られるが、人間は思い込むと目が見えなくなるものだ。そして、ついつい判断を誤ったり、時期を逸したりする。

 今日、こんなお話を聞かされた。「時代は少し溯るが、帆船が嵐に会い、航行不能となり漂流していた。時間の経過とともに船内の飲み水が底をついてしまった。周りは海で水はいっぱいあるのだが、これを飲むと逆に水が体外に出、死に至ることは船員には常識であった。そうした折、遠くから船が近づいてくるのを見た。船が近づくと、これで助かったと難破船の船員は大声で『助けてくれ、水が一滴もないのだ』と叫んだ。近づいてきていた船の船員は訝って、『周りは飲める水ばかりではないのですか?』と言った。難破船は漂流してアマゾン川の河口の上にいたのだ。川の水は真水であり、飲むのに差し支えない。だが、アマゾン川の河口の幅は広く、両岸を見ることができなかったから、難破船の船員は未だ海の上にいると思い込んでいたのだ。時間の経過とともに船は流され、周囲の状況は変わってしまっても、人間にはそれを知り得ることができない、一度思い込んだら、見た目が同じならば、状況は変わっているとはなかなか分からなくなるものなのだ。」

 人間には能力の限界がある。科学万能の時代では実証されたことしか信頼しないが、実証することもしないで、流れに身を任せていることも多い、そういう事を上の話は語ってくれている。自分の限界を知って、可能な限りの努力が必要なのだろう。

 地球温暖化が盛んに議論されている。二酸化炭素が問題ならば、如何に化石燃料使用を制限し、二酸化炭素排出量を現状維持しても、使う限りは大気中の二酸化炭素は増える。分かり切ったことでもこれなのだから、人間が分かっていないことで将来が絶望的になることもあると考えなければならないだろう。生き物とは厄介なのもだ。

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